W N T R A S A P

He who waits for winter, storing nothing

Our planet

「星から生まれて、星になるんだ」
「星から生まれて、星に死ぬんです」

(柴幸男『わが星』、40頁)

魔法少女のいたところ展』という企画(今も見れます)でお世話になった、こんにちは.世界さんとcoma planetさんのお二人の計らいで、無料公開中のままごとの『わが星』という演劇公演の同時視聴会に参加した。円形のステージ上で、時間軸を自在に伸縮させながら、太陽系の星々の歴史と平凡な家族の暮らしとが重ね合わされる。観客は宇宙のはじまりからおわりまでを目撃する観測者でありながら、同時に自身の過去・現在・未来を架空の家族の物語の中に見出す。なにより特筆すべきは、音楽家の三浦康嗣による劇伴の域を超えた多大な音楽的貢献である。ヒップホップ的アプローチで言葉遊びをふんだんに取り入れながら、台詞がリズミカルに連なり反復して、(やがて訪れる絶対的死というテーマを扱っていながら)得も言われぬ多幸感を生み出す。同時視聴のあとでcomaさんと、こんな複雑に構成された演劇がどうやって作られたのか見当もつきませんねと話した。こんにちは.世界さんが「意外と演出家とか劇作家からは評価はそこまで良くなかったような気がするんだ、当時」と言っていたので驚いた。『わが星』の初演は2009年らしいが、そのくらいの近過去でマスターピースと呼べるような皆知ってる演劇作品はこれと『三月の5日間』、あとほかにあるだろうか。本家の『わが星』を見るのはこれが初めてだったのだけれど、これまでにロロが『はなればなれたち』の劇中劇で披露したバージョン(観客にバカ受けだった)と、大学の演劇部によるバージョンを見たことがある。それで、今日見ながら思い出したのだけど、たしか大学に編入した年のゴールデンウィークか夏休みかに、高専の演劇部の後輩が用事で来ていて、二人で『わが星』を見に行ったのだった。後輩のバスの時間がギリギリで、終演後めちゃめちゃ焦りながら小走りでバスセンターまで道案内したのを覚えている。バスが出るまでのわずかな時間で飲み物を買ってあげて、息を整えながら見送ったその時が後輩の顔を見た最後だと思う。卒業後の進路とか絶対聞いたはずだけど、覚えていない。でも、汗で前髪が額に張り付いていた表情はとても鮮明に思い出せる。眼がシャッターを切ったのだろう。

Promise

きっと踊りましょう そのときは ふたりで
約束はしない このつぎ 会えたら

yes, mama ok?「問と解」、1997)

シュレディンガーを流石だなと思うのは、かの有名な猫と毒入りの箱を思考実験に留め置いたこと、すなわち実作しなかったことにある。動物愛護精神から言っているのではなく。だって人は大抵箱を作る。作らずにはいられないかのように。例えば約束を取り決めることも、箱の実作と同じだと思う。「○月○日の△△時に■■■■で会いましょう」と約束したら、もうあとは機械仕掛けの箱の中で開けられる瞬間を待つ猫でいるわけである。不安だから約束という箱を作るのに、箱を作ることで不安は具体的な輪郭をもつ。だから約束は曖昧であればあるほど好ましい。未来が希望との重ね合わせ状態を保っていられるのは、シュレディンガーの猫が閉じた箱の中にいるからではなく、そもそも一切が思考実験というエーテルの中でプカプカしているからだ。冒頭で引いた『問と解』の曲中人物は約束をしないから永遠に訪れることのない歌詞の3番か4番で踊っていられる。(他方、箱が開けられた後で「あったかもしれない過去」を現像するタイプのフィクションにも別様の甘美さがある。むしろこっちの方がポピュラーかもしれない。『ハチクロ』の5人の脳裡には行ったかもしれない海の写真がきらめき続ける。)いずれにせよ、いかに現実をダブワイズしながら生きていられるか、ということをよく考えてしまう。なんかちょっとにゃるらの日記みたいな今回。

 

Imposed

このままじゃ……あの、今のままじゃだめってことですか? それって、何でですか?

村田沙耶香コンビニ人間』、83頁)

コンビニ人間』を一気読みした週末、異なる場所で異なる人からまるで小説の中の話題を切り抜いたような愚痴を2件聞いた。「いい歳して独身だし結婚しようとも思わないのはおかしい」といういやな多数派の価値観が、現に人を苦しめていることを実感している。Cさんの勤め先では皆が「結婚して子供をつくり育てることは素晴らしい!」という情熱で駆動しているらしく、別にそう思っていないが淡々と仕事をこなすCさんに対して、もっと情熱をもてと非難してくるらしい。なぜ非難されなくてはならないのか全然意味がわからない。Aさんの会社の独身寮には年齢制限があって、寮を出た社員には既婚者に対してのみ住宅補助が払われるそうだ。Aさんは「うちの会社は結婚していないと人間だと思われない」と言う。CさんもAさんもこの文章だってなにも既婚者全員くたばっちまえと呪っているわけではない(『コンビニ人間』の白羽さんはそうかもしれないが)。なぜそちら側からばかり圧力を掛けられ続けなければならないのか、不当ではないか、という話である。結婚出産当然という考え方が「時代遅れだ」とかそういうのはどうでもいい。価値観のアップデートなんて期待していないし、第一その言葉は嫌いだ。他所からもってきたものでアップデートする価値観なんて、価値観とよべるのだろうか。繰り返すが、なぜそちら側からばかり圧力を掛けられ続けなければならないのか、不当ではないか、ということに尽きる。誰かに対して「変われ」と言うわりにその人への責任を負う覚悟をもたないのは罪深いと思う。ある種の啓蒙活動についても(どんなにお題目が立派でも)そういうのを見るといやな気分になる。相手に変わってほしいのなら心中する覚悟であたるべきだ。誰彼構わず言っていいことではない。『少女革命ウテナ』を見ろ。話はそれからだ。