W N T R A S A P

He who waits for winter, storing nothing

Mixed nuts

袋に詰められたナッツのような世間では
誰もがそれぞれ出会った誰かと寄り添い合ってる
そこに紛れ込んだ僕らはピーナッツみたいに
木の実のフリしながら 微笑み浮かべる

Official髭男dism「ミックスナッツ」、2022年)

友人たちとの間でJポップカラオケ大会をやろうというノリがあり、ポケカラというアプリで自主練に励むようになった。なんとも思ってない、何なら意味とかまるで気にしてこなかったJポップの歌詞をカラオケ用に繰り返し練習したあとの境地は、かなり「他者との共存」というかんじがする。自分のことを袋詰めのナッツとも、そこに紛れ込んだピーナッツとも思ったことないし、これからも多分思わないけど、そう感じている人が「いる」という体感がある。これこそが、別役実の本にあった「理解できないままであれ体験的に解読」するってやつだろうか。実際に起きた犯罪事件をモチーフにコントを書いて演じてみることの効用と同質のものを、Jポップカラオケのための練習を通じて実感しているのかもしれない。『水のないプール』という1982年公開の映画は、実際に起きた暴行事件を下敷きにしている。窓の隙間からクロロホルムを注入して部屋の中の女性を眠らせた後、侵入して性的暴行を働く男が主人公である、とウィキペディアに書かれている。創作のなかで、実際に起きた凶悪事件をベタになぞってみるのは今かなりリスキーだし、批評性(メタ)なしに扱ってはいけないものと自分も思い込んでいたけど、むしろ「ちゃんとベタに」想像する力を失ってしまったらその社会は他者の包摂なんてできるはずがない。メタって結局、既にできあがっている価値観の押し付けという側面あるし。かといってJポップの歌詞に素直に共感してる人がカラオケで歌っても、それはただの大声野郎なわけで。つまりは対象と自分との距離を認識しつつ、その距離について語るの(メタ)ではなく、対象について語ること(ベタ)に心血をそそいでみることが重要そうに思われる。これは手条萌さんの「漫才論争」批判にも通じる話。年に1回しか漫才をろくに見ない思想も持たない人間が、ネタそのものでなく形式の話をつつこうとする浅ましさ。かたや漫才師は、命よりも重い漫才を供している。犯罪者もまた、命よりも重い罪を犯している。