W N T R A S A P

He who waits for winter, storing nothing

Train

レリング:つかぬことを聞くようだがね、あんたは、いったい、この家で何をしようっていうのかね?

グレーゲルス:真の結婚生活の、基礎を築いてやりたいんだよ。

レリング:エクダルの結婚生活はこれで充分だ、とあんたは思わないのかね?

イプセン『野鴨』原千代海訳、155頁)

正義感それ自体に、良いも悪いもない。ということを然るべきタイミングで文学作品か何かから教われるといいと思うんだやっぱり。『野鴨』を読んだばかりだから余計そう思う。『走れメロス』は大体皆読んでいるはずなのに。でも、もし自分が、電車内の喫煙者を注意して殴られた高校生の親や友達なら、あるいは同じ車両の乗客なら、彼になにを言うべきなのだろうか、ということをすごく考えさせられた。羽鳥慎一アナウンサーは「電車内でたばこを吸うような人間に注意するというのは危険でしょうね。話が通じるような人間じゃないでしょうし」とコメントしたそうだが、だとしたら自分の子供にも、「話が通じなさそうな人間にはふれるな」と言って育てるのだろうか。どうなんだそれは。その場しのぎの身振りとしてなら確かに知っておいて損はないけど、人生に降りかかる災厄すべてをそれで躱そうというのはちょっと魂のステージが低いと思う。あと加害者をモンスター化することへの屈託のなさがいやだ。もしほんとうに話が通じないのなら、誰に注意されようが構わず煙草を吸い続けたのではないか。話通じないとか簡単に言うな。宇都宮の暴力事件は、いうなれば、電車の原罪だと思う。便利さの代償として常に抑圧されているものの、たまたま不幸な噴出である。もちろんここで加害者の帰責性をうやむやにする意図はない。推定無罪だけど。ただこうなる前に、JR職員がもっと考えて動いてくれてたらな、と。痛ましい事件は当然法廷で裁かれるべきだが、それはそれとして、殴った方も殴られた方も、電車で移動しなければ生活していかれない状況を強いられている点で、同じ立場である。あらかじめ選択肢を奪われていることを忘れてはならない。人権を踏みにじるような満員電車も、性犯罪もそうだけど、電車内で起きていることを従業員がコントロールできないのなら、JRは即刻操業を止めるべきでしょう。そんなサービス業ありえないんだから。

Plastic

「口の中に何かおる!何かおるんじゃああ!!」

藤本タツキチェンソーマン』71話)

『ダンダダン』、ヒロインのピンチでしばしば性暴力の現場っぽいシーンが描かれることがあり、読んでいてそれに当たると緊張が走る。そういうシーンを「描くな」と言うのは色々違うだろうなと思いつつ、もし問題があるとすれば、ヒロインはそのような性暴力未遂を受けてもべつだん心的ダメージを負っていないかのように、あるいはダメージを受ける前と変わらない状態まで自然回復するかのように描かれている点があやしいと思う。恋愛絡みで揺れ動く心模様はこまかく積み上げて描く一方で、宇宙人に拉致られて乱暴される寸前までいったのに助け出されればケロッとしているというのは、あまりにバランスが悪く恣意性を感じてしまう。そこでは、ストーリーの進行を阻害しそうな感情がオミットされているのではないだろうか。心の素材はゴムではない。外力を受ければ凹み、歪み、ただで元に戻ることはない。まあしかし、「問題がある」という表現を上では使ったが、フィクション作品なので「そうゆう性格のヒロインなんです」と言われたら理屈はそれで問題ないのだ(読者の共感は得難くても)。とはいえ、センシティブな表現だから、なお意見は分かれるだろう。一旦ここで『チェンソーマン』を読み返してみる。71話だ。地獄に落とされ、闇の悪魔に蹂躙されて命からがら戻ってきた早川家の面々は束の間の休暇を過ごしている。しかし、血の悪魔パワーの様子がおかしい。傲岸不遜な態度はどこかへ吹き飛び、闇の悪魔がいまも自分を見ているのではないかと怯えきっているため、一人では風呂もトイレも食事もままならない。デンジとアキが夜通し交代でパワーの面倒を見ているのを会話から読み取れる。その甲斐あってか、続く72話では、おそらく数週間が経過してもうかなり良くなっているのだが。このときの早川家で描かれているのは深刻な心身のダメージから回復する過程である(それでも現実よりはかなり、かなり楽観的だろう)。チェンソーマンは話が爆速で進む印象こそ強いが、このようなバランス感覚にも長けているように思われる。それにしてもパワーのモデルとなったのが『ビッグ・リボウスキ』のウォルターという話を思い出すたび笑ってしまう。

Enlightenment

「だとしたら」
「お前が光ってわけだ」

(橋本悠『2.5次元の誘惑』99話)

アメリカン・ユートピア』を映画館で見た時、現代人はここまで明示的に啓蒙する/される必要があるのかと思って少し辟易し、それから半年間は西洋的啓蒙主義の傲慢な一面についてぼんやり考えていたのだけど。先日、皮肉やアイロニーを浴びせることもまた啓蒙なのだ、という記事を読んでまた考えさせられた。確かにそうかもしれないが、ポーズとしてのアイロニーシニシズム(逸脱:transgression)と、手段としてのアイロニー(切断:detachment)は別物だと思う。そして自分は後者を愛用してきたのだし、これからもそうする。そもそもシニカルの語源は権力に牙をみせる獣人的なふるまいを指したものだった。時代が変わってそれが教養保守層のものにされたらしい。さて、『2.5次元の誘惑』という漫画を一気読みしたら、自分の中で啓蒙と折り合いをつけることができた(わーい。心の中でもちもちののぴがバンザイをしているよ)。要するに、啓蒙が贈与と同じように過去完了系で発生するのなら、それをポジティブに信用することができると思った。99話で夜姫はリリサから送られた言葉に対して「お前が光ってわけか」と独りごちる。夜姫は言葉通り照らされた(enlightenment:啓蒙)わけだが、しかしリリサの行動だけでは100話の展開にならなかっただろう。リリサの行動はあくまでトリガーであり、それによって夜姫は「すでに受け取っていた」光に気づいたのだ。だから100話の夜姫はファンやライバルの753に感謝の言葉を述べるのである。このような過去完了系の啓蒙を描くことは、物語(fiction)の得意分野だと思う。『アメリカン・ユートピア』は劇場で行われたショウなので、実際は演者と観客が相互にアクション/リアクションしあっていても、演者から観客へ与えるという構図が前面化してしまう。あるいは次のことが言える。教科書(=目的)がどれほど大事でも、その使われ方(=手段)を正当化してくれるわけではない。現在形のいわゆる啓蒙というのは、教科書を反復復習させられる授業のようなもので、真面目な子グループの結束感を高めるが、不真面目な子は席を立つか茶化しはじめる(なお、ここで真面目/不真面目と分けるのは優劣を付ける意図でなく、それらが単にクラスタの違いでしかないことを示すため)。対して過去完了系の啓蒙は、行動や体験を通して初めて生まれる。だからツイッターのTLでは起こりようもない。教科書を読ませる教師にも、教師を志すようになった体験があったのではないか。それを思い出したり、あるいはその教師から生徒へ「再演」したりする(=過去完了系の啓蒙を実装する)とき、物語はとても有用だ。