W N T R A S A P

He who waits for winter, storing nothing

Enlightenment

「だとしたら」
「お前が光ってわけだ」

(橋本悠『2.5次元の誘惑』99話)

アメリカン・ユートピア』を映画館で見た時、現代人はここまで明示的に啓蒙する/される必要があるのかと思って少し辟易し、それから半年間は西洋的啓蒙主義の傲慢な一面についてぼんやり考えていたのだけど。先日、皮肉やアイロニーを浴びせることもまた啓蒙なのだ、という記事を読んでまた考えさせられた。確かにそうかもしれないが、ポーズとしてのアイロニーシニシズム(逸脱:transgression)と、手段としてのアイロニー(切断:detachment)は別物だと思う。そして自分は後者を愛用してきたのだし、これからもそうする。そもそもシニカルの語源は権力に牙をみせる獣人的なふるまいを指したものだった。時代が変わってそれが教養保守層のものにされたらしい。さて、『2.5次元の誘惑』という漫画を一気読みしたら、自分の中で啓蒙と折り合いをつけることができた(わーい。心の中でもちもちののぴがバンザイをしているよ)。要するに、啓蒙が贈与と同じように過去完了系で発生するのなら、それをポジティブに信用することができると思った。99話で夜姫はリリサから送られた言葉に対して「お前が光ってわけか」と独りごちる。夜姫は言葉通り照らされた(enlightenment:啓蒙)わけだが、しかしリリサの行動だけでは100話の展開にならなかっただろう。リリサの行動はあくまでトリガーであり、それによって夜姫は「すでに受け取っていた」光に気づいたのだ。だから100話の夜姫はファンやライバルの753に感謝の言葉を述べるのである。このような過去完了系の啓蒙を描くことは、物語(fiction)の得意分野だと思う。『アメリカン・ユートピア』は劇場で行われたショウなので、実際は演者と観客が相互にアクション/リアクションしあっていても、演者から観客へ与えるという構図が前面化してしまう。あるいは次のことが言える。教科書(=目的)がどれほど大事でも、その使われ方(=手段)を正当化してくれるわけではない。現在形のいわゆる啓蒙というのは、教科書を反復復習させられる授業のようなもので、真面目な子グループの結束感を高めるが、不真面目な子は席を立つか茶化しはじめる(なお、ここで真面目/不真面目と分けるのは優劣を付ける意図でなく、それらが単にクラスタの違いでしかないことを示すため)。対して過去完了系の啓蒙は、行動や体験を通して初めて生まれる。だからツイッターのTLでは起こりようもない。教科書を読ませる教師にも、教師を志すようになった体験があったのではないか。それを思い出したり、あるいはその教師から生徒へ「再演」したりする(=過去完了系の啓蒙を実装する)とき、物語はとても有用だ。